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◇自己紹介◇
昭和40年12月8日生 熊本県生 獨協大学法学部卒 既婚(息子2人と妻)
宅地建物取引主任士 不動産コンサルティングマスター 不動産無料相談員(埼玉宅建協会)
私は、平成元年に卒業後、飛島建設グループの不動産販売会社に就職をし、神奈川県藤沢市にて、土地やマンションの仲介・販売の基礎を学びました。バブル絶頂の時だったので、全国の投資用アパートの販売もしました。特に印象に残っているのは、毎日3000枚のチラシまき、夜の9時過ぎまでの飛び込み営業、有給は取ると席が無くなるといった今で言うブラック企業でした。楽しいことは、投資用アパートの視察で、夜の函館で、イカの漁火を見ながら料亭での食事、高級クラブでの接待。何人ものお客様と一緒に過ごしました。当時は、地価が下がるとは誰も考えておらず、社員の多くも投資用アパートを購入していたので、誰もがいい仕事をしていると疑いませんでした。プラザ合意後、劇的な円高による低金利政策でバブルが発生。その抑止策としての高金利・総量規制等の金融引き締めで、バブルが崩壊し、勤務する会社は、銀行管理になりました。
代表取締役 三牧 信吾
Mimaki Shingo
小田原支店の開設に向け準備していましたが、それも中止。売れ残りマンションの販売要員として、横浜支店に出向。毎日1000件以上の電話営業をやっておりました。それなりに成績も収めましたが、「お客様とは、買ってくれる人がお客様で、その他は客じゃない!」という上司の言葉が引っ掛かり、何のために働いているのか、この会社を信じられなくなっていき、転職を決意しました。
銀座に本社がある平山企画(株)という飲食店専門の不動産仲介最大手に転職し、毎晩高級クラブを視察・案内という名目で、巡っていました。ビルオーナーの大きなベンツの運転をし、銀座・赤坂・六本木を中心に、いろいろな経験をさせていただきました。月給25万円で、毎月50万円程の経費を使ってました。帰りは毎晩タクシーでした。この頃、寝しなのラーメンで8kg程体重が増えました。
ある夜、麻布十番支店に残って仕事をしていると、駐車場を借りたいという初老の方がお見えになりました。1台5万円/月程の相場でしたが、夜の9時に案内をし、即借りていただけることになりました。当時は、駐車場の客は、相手にしないというのが会社の方針であったのですが、私一人でしたので、その方針を無視して契約しました。
2週間ほどしたある日、その初老の方が再び会社に訪れ、今度は、自己所有の土地に飲食ビルを建てて欲しいというのです。建設の知識のない当時の私は、上司に相談し、早速設計・見積・提案などのプレゼンをし、10億円の建築請負契約が成立しました。その時、私はお客様が困っていることを解決するのに、大きい小さいに関係ないということを学びました。あまり儲からない貸駐車場を一生懸命に探してくれたことに感激したと、後から聞かされました。
私は、仕事とはだれかの役に立つということであり、上下関係ではなくWin-Winの関係であるということだと強く思いました。その後、飲食店専門の会社でしたが、ホステスさんの住むマンションを探したり、ホテルの従業員用の寮を一棟契約したり、会社の方針とはあまり関係のない、お客様が望むものを探し、契約をするというスタイルで営業していました。会社からも特に怒られることもなく、私だけ新車のセドリックを買ってもらい、案内に使っておりました。もちろん、支店長の送迎がメインでしたが。土地・建物・マンションの仲介・販売から、駐車場、アパート、ビル、オフィス、飲食店、リース物件などの賃貸など不動産に関係する多くの知識を学びました。
そんなおり、平成4年、社長が進めていたオーストラリアやロタ島の海外事業の失敗や会長が株で大損をして、1500億円もの損失をだし、支店の閉鎖、社員のリストラが行われました。営業からビル清掃へ回された同僚もいました。支店長はクビになりました。会長・社長も辞任し、会社も管理部門と営業部門に分社化し、役員の大きな交代がありました。社員一人当たりの売上がトップだった麻布十番支店(といっても4人ですが)もあえなく閉鎖。六本木支店に配属されましたが、そこも閉鎖。銀座本店に戻されましたが、この頃から、飲食店の数も激減し、ピーク3000店舗あった銀座のクラブも実質1000件までになってしまったと言われるほどに縮小していきました。ここで多くのことを学びましたが、喜んでいただける仕事は減り、銀座通りの1階にお弁当屋さんやカラオケ店が出店し、高級クラブも時間制のお店に変わり、かつてタクシー待ちで2時間は当たり前だったのが、3列渋滞するほど、時代が大きく変わっていくことを目のあたりにしました。
人の役に立つ仕事、お客様に喜んでもらえる仕事とは、父からの受け入りであり、麻布十番で独立するか、父と一緒に仕事をするかを悩み、心の底から信じていた父の会社に入ることを決意しました。父が元気なうちに目に見えるものではなく、目に見えないものを多く学びたいと思ったのが、その理由です。目に見えないものとは、自分の生きがい、社員の幸せ、大工さんや職人さんの働きがい、会社の社会的必要性などです。
お客様に喜んでいただくためには、私一人では限界が低く、他の社員や協力会社の力を結束していかなければなりません。目先ではなく将来にわたって、喜んでもらえるようにするためには、自分がお客様の立場だったらどうする?ということの自問自答から始まります。もちろん、いろいろな考え方があるので結論は一つではありません。一つの悩みを解決する道筋として、プロとして考えられる方向を3つ以上示し、一つを選択してもらい、その選択したことからも、深い知識を裏付けに、更に次の方向をいくつも想定して選択してもらうという方法が一番理解されやすいということを学びました。私の考えを押し付けるのは、意味のないことだと分かったからです。
仕事以外になりますが、30代は、青年会議所という団体に所属し、明るい豊かな社会づくりをテーマに、いろいろなボランティアをしました。国際貢献事業でラオスに小学校を建設したり、地元のいろいろなお祭りのサポート、子供たちとの交流事業などです。
特に、2001年、幸手駅前に建てた57000個の電球を点灯させた15mのクリスマスツリー事業が、私を大きく変えました。話が具体化していくほど、メンバー50名のほとんどから、そんなことできるわけがないと批判を受け続けましたが、必ず街の人に喜んでもらえると信じ切っていた私は諦めきれず、一人口説き、また一人口説きと約一年間かけて仲間を増やしていきました。
ほぼ毎日、夜9時から深夜2時まで深く話し合いました。賛同者が10人程に増えたあたりから少しずつ変化があり、本当にやる気だということが、わかってくれるようになりました。駅前の市有地の許可を取るときも、市長はOKなのですが、担当の課長がOKをくれません。そこで、私の取った行動は、駅前の商店主からの事業賛成の署名活動です。商店会会長を始め多くの商店主や近隣住民に自書署名と押印してもらい、賛成者が多いこと、街のためになること、事業は単年度であるということなどを理解してもらい許可をもらうことができました。それ以来、この署名活動は、仕事でもよく使う手法になっています。
そして事業準備の間、何度も仲間に助けられました。私の苦手なことを率先してやってくれました。NHKなどテレビやラジオ、新聞などマスコミを呼んでくれたり、モミの木を軽井沢で見つけてくれたり(これも決まっていたモミの木を当日倒してしまい、別の木を急きょ見つけなくてはならないアクシデント有)、電飾をもとめて、中国・韓国に問い合わせ、アタリのあった韓国に翌日飛んだり、フィンランドの領事館に連絡してサンタクロース村からメッセージカードが届くように手配してくれたり、本当に50名全員の協力でやっと出来た事業でした。この頃から、私の考えが大きく変わり、周りの人への尊敬の念や感謝の気持ちでいっぱいになりました。一番うれしかったのは、青年会議所活動を一番批判していた妻が最後まで応援してくれたことでした。
この事業を境に地元でも多くの信頼できる仲間を作ることができたと自負しています。40歳でこの団体を卒業し、本業でこれらの経験を活かし、本当の意味での街づくりをしていきたいと強く思っています。そして、最後まであきらめない強い志を持ち、その信念に従って、行動することをやめないということが、この経験によりできた私の信条です。
仕事面でも、私が辿ってきた人生と同じように、お客様と接しています。従業員にも、いつもお客様の立場で考えることを最重要だと話をしています。協力会社の人たちがあって、初めていい住宅ができるので、決して、使ってやっているといった驕った態度は、絶対にしないさせないようにしています。そして、常に最新の情報が入るように多くのネットワークを持ち、いいと思ったら即行動を心掛けています。
今は、レンガ積みの家に注力していますが、その理由は、「建ててからお金のかからない家」を目指しているからです。30代前半で、何千万円もする買物をするわけですから、ベターでなくベストのものを選んでいただきたいと、強く願っていますから、私や社員の自己満足を押し付けるようでは、絶対にダメです。30年後に「本当によかった」と言っていただけるものでなければ、意味がありません。ですので、レンガ積みの家や自然素材は、手法であって目的ではありません。私どもは、お客様が「建ててからお金のかからない家」を手に入れて、30年後に感謝してもらうことが目的なのですから、そのミッションを実現するためにも、あらゆる手法をご提案できればと考えています。レンガ、ヨーロッパ漆喰、太陽光など時代によって変化はしていきますが、お客様にとってのベストを選択できるようご提案させていただいております。
長々と手前勝手なことをお読みいただいて、本当にありがとうございます。これからも成長を忘れず突き進んでまいりますので、何卒よろしくお願いします。
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